協会誌巻頭言
当協会について開業10年目を迎えて
公益社団法人熊本県精神科協会 理事 小山 一静
熊本県益城町の地に「ソラクリニック」を開業して,早いもので10年という月日が流れました。この度,精神科協会広報誌の巻頭言という機会をいただき,改めてこれまでの歩みに静かに思いを馳せています。
私の医師としての歩みを振り返るとき,すべての始まりとなった記憶があります。生まれ故郷である天草の酒井病院に勤めていた頃の私は,地域医療の現場に深くやりがいを感じており,当時は自分でクリニックを開業するつもりなど,全くありませんでした。このまま一人の勤務医として,目の前の患者さんと実直に向き合い続けていくのだろう――。そんな風に考えていたまさにその矢先,あの熊本地震が起こったのです。
天草から激震地であった益城周辺へと赴き,目にしたのは,押し寄せる患者さんの対応と不眠不休の活動によって,文字通りボロボロになりながらも必死に現場を支えていた大学病院の先輩や後輩たちの姿でした。あるいは,甚大な被害を受けた被災病院をなんとかして助けるために,県内のあらゆる精神科病院が「オーバーベッド上等」の精神で手を取り合い,限界を超えて患者さんの入院を受け入れ,一丸となって互いを支え合っていたあの連帯の光景です。
すぐ身近にいた大切な仲間たち,そして県内全体が心身の限界を迎えながらも現場を守ろうとする現実を前に,一人の精神科医として,「今,自分が本当に身を投じるべき場所はどこなのか」と,突き動かされるような思いが胸の奥底から湧き上がってきたことを,今でも鮮明に覚えています。そんな混乱と疲弊のなかにあった私に,一つの明確な道標を指し示してくれた原点があります。それは,かつて私が熊大医局に在籍していた頃,病棟長をされていた牛島洋景先生(現:うしじまこころの診療所院長)の存在でした。
2011年の東日本大震災の際,病棟長であった牛島先生は,いち早く東北の被災地へと診療支援に入られました。当時,同じ医局からその背中を見上げていた私にとって,先生が持ち帰られた「復興支援とは,一過性の情熱ではない。この地に根を張り,日常の医療を何年も,何十年も『継続』することこそが真の支援なのだ」という言葉は,非常に深く印象に残るものでした。牛島先生はその後,千葉でご自身のクリニックを開業されましたが,今に至るまで年に1回,必ず東北の被災地へと支援に足を運び続けていらっしゃいます。かつての頼もしい病棟長としての背中,そして今なお現在進行形で「継続」を体現されている牛島先生の生き様。そのブレない姿勢は,熊本地震の渦中で立ち往生し,必死に戦っていた私の頭に,ふと,しかし強烈に浮かんできました
当時は自分で開業するつもりなど全くなかった私ですが,仲間たちの姿と牛島先生の「継続」という言葉が重なったとき,「それなら,自分がこの益城の地で,医療を続けていく役割を引き受けるべきなのかもしれない」と,少しずつ心の腹が決まっていったのを覚えています。決して大層な覚悟があったわけではなく,ただ「ここで踏ん張ってみよう」という,一人の臨床医としての静かな決意からのスタートでした。
そうして始まったソラクリニックですが,実際に日常の診療を始めてみると,震災後の複雑な地域ニーズ,さらにはその後に訪れたコロナ禍という新たな災禍も重なり,現場は常に手探りの連続でした。
開院当初は本当に小さな一歩でしたが,必死に地域の声に応えようと,多職種連携や院内の体制を整えていくうちに,気付けば当院は30名を超えるスタッフを抱える組織へと成長していました。
しかし,組織の長として,また経営という荒波のなかで,チームのマネジメントや地域医療における責任の重さに,今度は自らの力不足を痛感することになります。どうすればスタッフが生き生きと働けるのか,院長としてどう振る舞うべきなのか。不安で夜も眠れぬ夜が何度も生じました。
そんな迷いと葛藤の最中にあった私を救ってくださったのが,橋本衛先生(現:近畿大学医学部精神神経科学教室主任教授)からいただいた一言でした。
「立場が人を作るのだから,恐れずにその重責を担いなさい」
未熟な自分が院長という立場に相応しいのかという自問自答に対し,その「立場」こそが自分を育て,変えていく契機なのだという教えは,暗雲を払う一筋の光となりました。この言葉のおかげで,私は孤独な決断を恐れず,覚悟を持ってリーダーとしての第一歩を踏み出すことができたのです。
10年目を迎えた現在,当院は有り難いことに,地域の皆様や周囲の医療機関から,以前よりもずっと大きな役割や責任を期待していただける機会が増えてまいりました。これからの10年の抱負として,私はこれまでの伝統や先達から受け取ったバトンを大切に守るだけでなく,時代の変化に応じた「新しい地域医療のあり方」を,恐れずに模索していきたいと考えています。SNS を活用した若い世代へのアプローチや,風通しの良い情報共有システムの構築など,医療の質を向上させるための変革への挑戦を止めるつもりはありません。
しかし,私がここで強調したいのは,私一人の力でそれらを成し遂げられるわけではない,ということです。複雑化する現代の精神疾患や社会問題に対して,一人の医師の知識や経験だけで立ち向かえるほど,臨床の現場は甘くありません。看護師をはじめ,多様な専門性を持った30名のスタッフ一人ひとりの鋭い「気づき」と,患者さんに寄り添う「情熱」が組み合わさって初めて,ソラクリニックの医療は完成します。
私に必要なのは,私の背中についてくるフォロワーではなく,同じ景色を見つめ,共に歩んでくれる全スタッフの力です。ソラクリニックという場所が院長である私を育ててくれたように,ここで働く全員が専門職として,そして人間として豊かに成長できる広場でありたいと願っています。
こうして振り返ると,自分で開業するつもりなど全くなかった私が,激動の10年を何とか歩んでこられたのは,要所要所で私を導いてくれた大切な先達の「言葉」があったからだと,改めて深い感謝の念が込み上げます。
あの震災のなかで手を取り合った県内医療人の熱い互助の精神と,私を支えてくれた先達の言葉。これらすべての財産を,今度は私がソラクリニックのスタッフたち,そして次世代を担っていく新しい仲間たちへとバトンとして繋いでいく番です。あの日に受け取った大切な言葉たちを忘れることなく,私たちはこれからも,どんな時も県民の皆様が安心して見上げられる「ソラ」のような存在であり続けるために,会員の先生方と共に一歩一歩,確実に向こう10年の歩みを進めていきたいと思います。今後とも,どうぞよろしくお願い申し上げます。
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- 協会誌巻頭言「開業10年目を迎えて」(PDF)
- 協会誌巻頭言「熊本における精神保健福祉の先人たちの取り組み」(PDF)
- 協会誌巻頭言「新年のごあいさつ」(PDF)
- 協会誌巻頭言「不亦楽乎」(PDF)
- 協会誌巻頭言「しんそしんみつ」(PDF)
- 協会誌巻頭言「公立・公的病院の役割~インクルーシブな社会を目指して~」(PDF)
- 協会誌巻頭言「新年のご挨拶」(PDF)
- 協会誌巻頭言「私の愛おしい小さな子供達」(PDF)
- 協会誌巻頭言「テクノロジーとの共存」(PDF)
- 協会誌巻頭言「新年のご挨拶」(PDF)
- 協会誌巻頭言「精神科医療と身体、連携について」(PDF)
- 協会誌巻頭言「電気代高騰と脱炭素」(PDF)
- 協会誌巻頭言「熊本地震8年を迎えて」(PDF)
- 協会誌巻頭言「新年のご挨拶」(PDF)
- 協会誌巻頭言「今までの人生を振り返り,更に今後の生き方について」(PDF)
- 協会誌巻頭言「もうひとつのパンデミック」(PDF)
- 協会誌巻頭言「新型コロナの行方」(PDF)
- 協会誌巻頭言「新年のご挨拶」(PDF)
- 協会誌巻頭言「人権制限の必要性と有害性」(PDF)
- 協会誌巻頭言「コロナ禍における覚悟」(PDF)
- 協会誌巻頭言「熊精協との30年」(PDF)
- 協会誌巻頭言「新年のご挨拶」(PDF)



